21世紀に世界経済を席巻すると言われるBRICs(ブリックス)4ヶ国。その中でも、世界第3位の経済力を誇るようになると見られるインドは、かつて滅亡を経験し、英国の長い支配の中で苦しみ続け、独立達成後も流血に苦しみ続けた国であった。そんなインドが、いかにして現在のIT大国としての地位を築き、21世紀への輝かしい未来への道を開いたか。独立の志士たちの苦しみと栄光、そしてインドの将来について、書いた。
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05. インド国民会議誕生
インド国民会議は、そもそも英国側の独立熱への骨抜き策として、いわば官製の政治組織としてスタートした。1885年のことである。
そもそもこれは、植民地支配のもとで成長したインド人エリート層による英国批判を交わす狙いで、自治への期待を餌に、対英協調の雰囲気を作り出すために、インド総督の承認のもとに発足した。
当時、英本国でも植民地での差別的・強圧的な法令を撤廃していこうという気運が盛り上がっていた。1880年に成立したクラッドストンの自由党内閣は、本国でも農業労働者・鉱山労働者を与えたり、
アイルランド人農民の権利保護のための法案を通したりと、進歩的な政策を推進していた。
インドにおいても、インド人への差別的な法令・法案のいくつかが排除される。
しかしながら、たとえばインド領土内における法律上の差別(イギリス人は、イギリス人の法廷によってのみ裁かれる、という・・・。たとえばかつてのアメリカ南部で、白人が黒人を私刑に処しても、白人の陪審員・弁護士・裁判官によって無罪にされてしまうような、そんな差別が容易に想像できる)を撤廃しようというインド内部よりインド植民地政府に提案されたイルバート法が、イギリス本国政府よりの反対によって廃案にされる。
結果として沸き起こった反英運動は、二つの流れとなる。
ひとつは、官僚出身の親インド派イギリス人のヒュームと、インド出身のビジネスマン・政治家(後年、インド人として初のイギリス下院議員1892‐95年)ナオロージーによる「インド国民会議」。これはイギリス本国政府・インド植民地政府の承認を得た、ガス抜き的組織の意味もあった。
もうひとつは、やはり官僚出身のインド人バネルジーが音頭を取って結成された反人種差別を標榜する全インド国民協議会。
この二つの流れは、結局、1885年にボンベイで開かれた国民会議第一回大会において、全インド国民協議会が国民会議派に合流することによってひとつのものとなる。
当初は、知識人層・エリート層を中心とした活動であったため、比較的穏健で、対英強調を基調とした組織であった。またそれは、インド人権利保護に熱心ではあってもインドの独立を良しとしない生粋の英人ヒュームなどの思惑でもあった。
しかしながら、一度流れのついた独立運動には、歯止めが利かない。
世紀末が近づくにつれて、ティラク、オロビンド・ゴーシュといった過激派が参加し会議の主導権を奪取、その運動は1906年のベンガル州分割令反対運動をひとつの分水嶺として、最初の沸点を迎える。
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