21世紀に世界経済を席巻すると言われるBRICs(ブリックス)4ヶ国。その中でも、世界第3位の経済力を誇るようになると見られるインドは、かつて滅亡を経験し、英国の長い支配の中で苦しみ続け、独立達成後も流血に苦しみ続けた国であった。そんなインドが、いかにして現在のIT大国としての地位を築き、21世紀への輝かしい未来への道を開いたか。独立の志士たちの苦しみと栄光、そしてインドの将来について、書いた。
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07. 第一次世界大戦後
サラエボでの暗殺事件をきっかけに、当時の欧州の複雑な同盟・連合関係がもつれにもつれて第一次世界大戦が勃発した。
政治・外交的には暗殺事件になんの関係もない国々までも、戦争計画の一部だからとほとんど自動的に侵攻を受け、さらにそれらの国々と同盟していた国々が参戦し、もつれにもつれてこの史上最大の戦争が勃発した。
とにもかくにも、当初は短期間で終わると考えられていたこの戦争は、やがてはアメリカや日本まで巻き込み、さまざまなかたちで世界のありようを変えてしまった。
騎兵の突撃から塹壕線へ、そして航空機による制空圏確保、毒ガスの使用、戦車の誕生。
アメリカの参戦による、アメリカの存在感の増加。そして日の沈まない帝国と言われた英国の世界覇権への陰り。
ロシア革命によるソビエト社会主義政権の誕生と、日本とアメリカを主力とするシベリア出兵。それにともなう、日本のさらなる右傾化、中国へのさらなる侵攻。
戦後のドイツの右傾化。欧米日の世界中の植民地での民族主義の台頭。
第一次大戦の終結は、なんの問題も解決しなかったといえる。ただ戦い疲れた交戦国が中休みをしていただけともいえる。
しかし、インドにおける独立運動は、この戦間期に、大きな前進を迎える。
マハトマ・ガンジー、ジャワハルラール・ネルー、チャンドラ・ボースの、独立運動への登場である。
マハトマ・ガンジーは、周知のようにロンドンで法律を勉強し、南アフリカのインド系移民保護に力を尽くす弁護士として活躍した。

大戦時には、英国の独立への約束を信じ、英国への協力を呼びかけた。
しかしそれが空証文だったこと知ると、独立への運動を開始する。英雄ガンジーの、ある意味で非英雄的な、それゆえに真に英雄的な、非暴力の活躍の始まりである。
戦後にインドへと帰国したガンジーは、20年には穏健派と過激派に分かれていたインド国民会議の統合に成功する。
インド独立の志士ティラクは、こうしたガンジーの非暴力方針に批判的であったといわれる。ガンジーの最盛期は、ティラクの晩年期にあたる。やがてティラクもこうした方針に理解を示し始め、対話や交渉によってのインド独立獲得を支持するようにな、その最晩年には、インドは政治的独立を達しつつも大英帝国の大枠にはとどまるべしとまで態度を変えている。
それはともかく、ガンジーによって方向を与えられたインド独立運動は、おおきな盛り上がりを見せた。
ガンジーは、宗教・宗派・民族(言語を民族を取り分ける基準とすれば、インドはとてつもない多民族国家である)の違いを超えた団結を呼びかけた。とくに知識人ではなく、貧困層まで含んだ草の根の団結を最重要視した。ガンジーの才能の真骨頂は、その組織化の才にあったのかもしれない。
いままでは、どちらかというとエリート層・知識層に限られ、またヒンズー教徒とムスリム教徒に分断されがちだったインドに対し、インド人という自覚を与え、団結させたのは、ガンジーの手柄ではなかったか。そのすべてではないにしても、インド10億人の人口に対し、今日、インド人としての自覚を持つにいたった、その発端は、ガンジーに着せられれべき功績といえよう。
1930年、英国の塩に対する課税に反対し、ガンジーは大規模なデモ行進を組織する。実に400キロに及ぶ行進は「塩の行進」と呼ばれ、ガンジーの組織化の才とそのカリスマ性が遺憾なく発揮された例として記憶されていい。6万人に及ぶ逮捕者を出したこの行進は、結局は英国政府を交渉の場に着かせることに成功する。
1931年、ガンジーはいくつかの妥協を英国より引き出すことに成功し、ロンドンでの交渉の場を持つことにもなった。しかし交渉の結果に失望したガンジーは、やがて非暴力・不服従の反英闘争に戻っていく。
チャンドラ・ボースとの確執からくる、ボースのインド国民会議離脱などの曲折があったものの、基本的にはガンジー・ネルー体制を基本として、インドとインド国民会議は第二次世界大戦を迎える。
