21世紀に世界経済を席巻すると言われるBRICs(ブリックス)4ヶ国。その中でも、世界第3位の経済力を誇るようになると見られるインドは、かつて滅亡を経験し、英国の長い支配の中で苦しみ続け、独立達成後も流血に苦しみ続けた国であった。そんなインドが、いかにして現在のIT大国としての地位を築き、21世紀への輝かしい未来への道を開いたか。独立の志士たちの苦しみと栄光、そしてインドの将来について、書いた。
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09. 第二次世界大戦2
オーストラリア女性エミリーとの暖かい関係は、ボースに力強い支援を与えたようだった。
1936年、ボースは逮捕を覚悟の上で、インド国民会議に参加するために帰国を決意する。あんの上逮捕され、投獄中には結核も再発してしまう。つづいて実兄の家に軟禁状態になり、そのままインド国民会議は選挙に圧勝する。
やがてボースはインド国民会議派議長に推戴される。それは、過激派ボースをその影響下におこうとするガンジーの意向であった。しかし急進派としてガンジーに批判的なまま、国民の圧倒的な人気を集め始めたボースに、ガンジーは警戒感を抱き始める。
1939年、ガンジーはインド国民会議議長選において、ボース以外の候補を推薦する。通例でいけば、ガンジーの意向がそのまま当選につながった。しかし、このときにガンジーの意向に反して出馬したボースは、圧倒的とはいえないまでも、十分な差をつけて当選を果たしてしまう。
ガンジーは、ボースに関して、以下の二点で決定的に袂をわかつことになった、と言われる。
ひとつは、ボースの急進的闘争方針が、ガンジーの非暴力方針と決定的に分離していたこと。
そしてもうひとつは、ガンジーの目から見たボースには、民主主義への評価が、決定的に低かったこと。
ガンジーは、インド国民会議の幹部たちに、自分のボースへの非協力を宣言した。幹部たちは、ボースの実兄を除き、すべてが辞任した。選挙によって選ばれた議長を、自分の鶴の一声で実質的に「廃位」してしまうことを、ガンジーはどう考えていたのか。ボースは、辞任した。
ボースは前衛派とよばれる独自の政治勢力を作り上げたが、日に日にその影響力は落ちていく。
そんななか、ドイツのポーランド侵攻に伴い、第二次世界大戦が勃発し、インドもまた戦争に巻き込まれていく。ここで、ガンジーとボースは決定的に仲たがいする。いまこそが武装闘争と独立達成の絶好のチャンスであると説くボースに、ガンジーははっきりと否と応える。この戦争は、大英帝国が勝とうが負けようが、その国威をとことんまで落ち込ませてしまう。自治・独立はそれからでも達成できる。なによりも、ドイツと血みどろの戦争を始めた英国を背後から一刺しするようなまねは、道徳的に許されない、と。
二人は決裂した。それは、お互いを真の愛国者と認め合った上でのことであったから、悲劇的であったといっていい。
ドイツへ。ギリス官憲の目を逃れ、中東からイタリアを経る冒険行のすえ、ボースはベルリンにたどり着く。ボースの闘争が始まった。
ナチスドイツの武装親衛隊には、人種別の部隊があり、アメリカ人やロシア人、はては日本人までがそこに参加していた。ボースはインド人師団編成に力を貸すが、ナチスドイツが結局はインド独立に興味をしめさないこと、またボースその人がナチスのユダヤ人迫害政策などを批判したことを受けて、日本へ向かう。
U-ボートから日本の潜水艦に乗り移って日本へたどりついた。すでに東南アジアにて組織されていたインド国民政府とインド国民軍は、ボースをその指導者として迎え入れる。また、ボースと東条の合意により、日本軍が占領中であったインド領アンダマン・ニコバル諸島がインド国民政府の管理に移された。これは、領土がないかぎり独立政府として承認されないという国際法上慣習にたった対策であった。
そしてインドは、1944年のインパール作戦を迎える。
ほとんど幻想的といっていい日本軍の自己中心的な現実認識と、とことんまで自軍に不利な状況を無視し尽くすことによって遂行されたこの作戦は、そもそも敵である英軍ではなく、食べるものが無いと言う戦闘以前の問題であっけなく崩壊した。
もちろんのこと、現地の日本軍参謀たちは最後の最後まで反対したが、発令者である牟田口将軍のほとんと痴呆的なまでの楽観主義と、情実によって牟田口を支持した後方の大本営によって作戦の決行は決定された。
無論、苦しみ、死んでいくのは将軍たちではなく、兵士たちだった。
3月に開始された作戦は、7月に中止された。実際は中止などというものではなかった。作戦の遂行が不可能になるほどの損害をだしていた。
日本軍参加将兵約9万のうち、戦死3万弱・戦傷戦病者4万以上。その多数を、餓死者が占めていたという。6000人ほどが参加したインド人部隊のうち、退却に成功したものが約2600あまり。ただしその大部分は即座に(栄養不足その他から)入院が必要だったという。捕虜が800人、行方不明700人、戦死400人、そして餓死者が1500人にものぼったという。この作戦の本質が、その数字から伺える。
やがて日本は降伏した。ボースは、ソ連との提携のもと、中央アジア方面よりのインド侵攻を考えていた。すでにインドでは、イギリスとガンジーらインド国民会議派による自治実現の協議が始まっていた。ボースが恐れいていた、中途半端な自治であった。
マレー半島よりソ連へと向かう途中、ボースの乗った飛行機が台北で墜落した。陸軍病院での治療を受けたが、死亡した。8月18日のことである。
