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21世紀に世界経済を席巻すると言われるBRICs(ブリックス)4ヶ国。その中でも、世界第3位の経済力を誇るようになると見られるインドは、かつて滅亡を経験し、英国の長い支配の中で苦しみ続け、独立達成後も流血に苦しみ続けた国であった。そんなインドが、いかにして現在のIT大国としての地位を築き、21世紀への輝かしい未来への道を開いたか。独立の志士たちの苦しみと栄光、そしてインドの将来について、書いた。
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本文見出しの文頭10. 日本の降伏とインドの独立

1945年8月15日、300万の同胞を失い、おそらくはそれと同数のアジア人の死者を生み出しつつ、日本は降伏した。なお、米軍の太平洋戦線での死者は約30万弱といわれる。


ドイツは、先立つこと5月に降伏していた。イタリアは、すでに連合国にあって、日本の降伏を受ける立場にあった。

それは、世界に新秩序が生まれるきっかけだった。

日本が、ほとんど信じがたいほどの脳天気さでもってアジア・太平洋地域に送りこんだ兵隊たちは、絶望的な状況にいたっても、これまた信じがたいほどの忠誠心をもって、米英軍に痛撃をあたえ続けた。

当時、世界一といっていい野戦病院と救命システムを誇った米軍は、結果として人名の損耗を最小限に抑えることに成功する。そして、その経済はむしろ戦争による消費によって回復のきざしすら見せていた。結局はニューディール政策の総仕上げは、第二次大戦参戦にともなう大規模な支出によって成し遂げられたといっていい。

しかし、ドイツによって本土を空からたたかれ、アフリカをあらされ、そしてアジアに置いてその緒戦にほとんど一方的といっていい敗北を続けた結果、大英帝国のnational prestage・国家的威信は地に落ちていた。

さまざまな傍証から、日本の戦争指導部が、アジア開放というものを本気で考えていたとは立証できない。それは、単にオイルを求めるためにはじめた戦争であり、しかも、オイルを求めるその理由が、それがなければ将来の戦争に勝てないから、というものだった。

大東亜共栄圏は、結局のところ、日本の戦争の都合上で謳い上げた政策であり、また戦争遂行上邪魔にならない範囲でなら、ポーズを取ってもいい、程度のものだったのでは無いか。

そもそも、自国を犠牲にして他国を解放しようとしたような国など存在しないし、なにより自国民や自国の兵を、ほとんど軍事的なゲームを楽しむために、あたかも奴隷のように扱い、かつ使い捨てにしたような当時の大本営(とくに国家を実質的に私物化した陸軍の高級参謀たち)のありようを見れば、アジア開放などは紙くずのような価値しか持たない言葉だったことがわかる。

現に、大東亜共栄圏のお題目どおりにインドネシアで同国独立のための軍政を布いた今村大将、それをうとんだ大本営によって左遷されている。

しかし歴史の痛烈な皮肉は、日本が、ほとんど自滅するような馬鹿な戦略を取ったすえ、アジアの人々にも痛烈な打撃を残しつつも、ほとんど共倒れするようにして欧州諸国、特に英国のアジア植民地支配にとどめを指してしまったことである。


また、中国においても、やはり日本軍と国民党軍が共倒れのようにして戦力を消耗しなければ、あるいは共産党軍が内戦に勝利することは難しかったかもしれない。

以上は、歴史というものの因果関係のときに凄惨な皮肉を述べたに過ぎず、それ以上の意味は無い。


かくして、英国は栄光の座をすべりおり、インド軍の反乱すらおきた英領インドに置いて、当のイギリス人には話し合いのテーブルに付く以外の何事もできなかった。


英国が次々と提案したインドへの自治付与、あるいはインド人による連邦制などは、インド国民会議によって次々と拒否される。


インドは、インド人自身の手によって、47年に独立を宣言した。

流れを年譜風に記す。

1945年、イギリスのアトリー内閣はインド委員会を設置、3原則を発表する。インドでの総選挙の実施、憲法制定会議の設置、インド人の責任内閣を組織する、というもので、インド人による自治の基本原則を述べたに過ぎない。

当然のような反対運動は、インド軍(英軍のインド人部隊)の反乱騒ぎにまで発展する。当時のインド総督は、インド国民会議との交渉を打ち切って、イギリス軍による軍政まがいの解決法を考えていたようだが、疲弊した英本国にとってとうてい容認できる案ではなかった。

アトリー内閣は、ちょくせつ閣僚使節団をインドに送り込み、おだやかな連邦制を基礎とする独立インドの案を持ちかけたが、これも統一インドを求めるインド国民会議と、なによりインドの人々によって拒否される。

結果、英国はインドにおけるすべてを失い、インドは47年8月に独立を宣言する。それを押しとどめる、あるいはその政府を英国に都合よい政体にとどめる力は、英国にはもはや存在しなかった。


英国の施策として成功したものといえば、ムスリムとヒンズー教徒の分断策であり、結果として英領インドはインドとパキスタンという二つの国家として分離した。しかし、そこに英国人が介入できる余地はもはや残っていなかった。

インド人は、ネルーを首相としていただきつつ、ガンジー暗殺、印パ戦争などの苦難を迎えることとなる。



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