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21世紀に世界経済を席巻すると言われるBRICs(ブリックス)4ヶ国。その中でも、世界第3位の経済力を誇るようになると見られるインドは、かつて滅亡を経験し、英国の長い支配の中で苦しみ続け、独立達成後も流血に苦しみ続けた国であった。そんなインドが、いかにして現在のIT大国としての地位を築き、21世紀への輝かしい未来への道を開いたか。独立の志士たちの苦しみと栄光、そしてインドの将来について、書いた。
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本文見出しの文頭11. インド・独立

ジャワハルラール・ネルーは、1889年にバラモン階級の家庭に生まれた。独立インドの初代首相として、実際面でインドの舵取りをした政治家である。


ジャワハルラール・ネルー

その妹、パンディット・ネルーは、駐米・駐ソ・国連大使や国連総会議長などをつとめた女性政治家・外交官として知られる。また、パンディットの娘・タラと日系アメリカ人芸術家イサム・ノグチとのあいだのプラトニックな恋愛関係があった。

ネルーその人は、イギリスのトリニティ・カレッジを卒業し、欧州各地を旅行、アイルランドで巻き起こる反英闘争や、日露戦争によってまきおこる東欧の反ロシア運動、あるいはハンガリーの反墺闘争などを目の当たりにする。

弁護士資格をとって帰国したネルーは、1912年にはインド国民会議に参加し、最初は急進派の闘士として活躍する。

最初はボースと同じ、過激派の闘士として活躍していたが、やがて積極的にガンジーの非暴力路線に協力するようになった。無論、そうであっても何度もの逮捕と投獄を経験している。投獄期間を合計すると、のべ十年近いという。

戦時中もまた、投獄されていたが、終戦間際にガンジーらとともに釈放される。やがて来るべき独立にそなえたインド国民会議議長選において、ガンジーの推挙を受けて当選する。それは、独立後のインドの実質的なリーダーとして選ばれたということであった。

ガンジーは、ネルーの社会主義的政策について100%の同意をしていたわけではない、とされる。

革命には、3つの世代が必要であるとされる。先覚者であり、闘士であり、実務家である。ティラクその他の19世紀の志士たちこそが先覚者であり、かれらは危機とその克服を呼びかける。多くは、その革命の成果を見ることなく死んでいく。つぎは闘士であり、戦って戦って戦って革命を掴み取るのがこの世代である。あるいは、ガンジーはこれに属しているといっていい。ボースは、もちろんこの闘士の世代である。そして実務家が、革命の理想を受け継ぎ、あるいは歪め、行政化していく。ネルーは、年代的にはガンジーと同じではあるが、あるいはガンジーはネルーにこそその実務家の才能を見出したのかもしれない。

曲折の末、イギリスはインドの実質的な権力をインド人の手に譲り渡す。47年のことである。しかし老獪なイギリスの策謀によって、インドはインドとパキスタンという二つの国家に分断された。イギリスの撒いた紛争の種をそのまま受け継ぎ、ヒンズー教徒とイスラム教徒という宗教によって分断されたインドは、やがて激しく合い争うようになる。ガンジーはそのはざまにあって融和を唱えたが、過激派によって暗殺される。

ネルーには、そんなインドの独立を、冷戦の始まった国際社会の中で維持していくという重い使命が課せられた。

ネルーは、その任によく堪えた。その死まで、首相の任を全うした。国内的には社会主義政策をとり、国外的には中国やユーゴスラビア、あるいはアフリカ諸国と交流を深くし、第三世界の雄としてのインドの地位を各個たるものにした。また、冷戦の熱戦への加熱を避けるための火消し役をつねに勤めたその功績は、決して小さいものではない。

その社会主義的政策は、インドの経済発展を阻害したという批判もある。また、ネルー王朝とよばれる同族によるインド政界の支配を批判する声もある。

しかし、インド独立という、いわば「上がり」の後の苦しみを自ら身をもって背負ったその生涯は、決して忘れられていいものではない。

1964年、突如の心臓発作によってネルーは逝った。

それは、インド独立へ向けてその命を散らしていった志士たちの時代の最後の終わりと、21世紀の超大国たるインドのあらたなる飛翔の始まりを指し示していたのかもしれない。

現実に、21世紀への飛翔は、独立第一世代、第二世代によって達成される。

過去に数え知れない苦しみにインドの輝かしい歴史は、いま始まったばかりともいえる。




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